スタジオ解放区

夏 草 や 兵 ど も が 夢 の 跡  かつて、繁栄を極めたコザを舞台に、 忘れられた街コザ十字路銀天街エリアに生息するものたちの生記録。

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いわきで滞在制作 三函座物語り

mihakozachirasi.jpg

いわき湯本温泉にひっそりと佇む旧映画館『三凾座』は、
約百年前に芝居小屋として建設され、28年前に映画館として幕を降ろしました。
以来、眠ったまま....。

昨年の冬の福島県いわきでの滞在制作がきっかけで
街の秘密基地的存在として「三凾座」を再利用できないかと考えている檜山さんに出会い
今回にいたりました。
昨年は、菩提院で袋中上人と琉球の物語りを紡ぎ
今度は、旧映画館で三凾座と湯本の物語りを紡ぎます。

明日(というか今日)から滞在制作!
解放区メンバーも集結します。
クリスマスは三凾座でお会いしましょう~。


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  1. 2010/12/18(土) 04:40:57|
  2. 土着現代アートフェス
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AAF交流支援プログラム「沖縄コザの記憶から横浜若葉町を思う」その2

AAF2010交流支援プログラム
「沖縄コザの記憶から横浜若葉町を思う」のプロジェクトで
11月末に5日間ほどスタジオ解放区に滞在したART LAB OVA のお二人。
迷路のようなコザを歩きまくりながら、インタビューを重ねていきました。
最終日の交流会では、若葉町の話やオーバの活動の話もとても興味深く
コザとのつながりに思いを巡らせました。

報告レポートが届きましたので紹介します。
今後も交流していきたいと思います~。


一部、▼インタビュー映像はこちら

毎日の▼写メはこちら

:::::::::::::::::::::::::::::::::::::

★「沖縄コザの記憶から横浜若葉町を想う」
~戦争、進駐軍による接収やそれにともなう歓楽街の盛衰など、若葉町とコザの共通の歴史について、スタジオ解放区のスタッフと共に町に出て住民の話を聞くフィールドワーク~
ART LAB OVA → スタジオ解放区
時期:2010年11月25日~12月1日

「横浜も、終戦後の1945年~1952年まで、進駐軍にその中心部のほとんどが接収されていたのです。」という事前の説明に、コザの人たちの表情が動くのがわかる。
ほとんどの人たちが、「知らなかった」という。

銀天街のお惣菜屋さんも、まだ会ったばかりのオーバが、ビデオカメラを向けても嫌がらず、笑顔で答えてくれた。
1949年(昭和24年)生まれで、高校卒業と同時に沖縄県南部からコザにやってきた。
「当時は、兵士からガムやチョコレートをもらって、まだ、物のない時代だったから助かったよ」。
1958年(昭和33年)生まれのお花屋さんも、「こどものころは、よく、ギブミー、マネー!っていって、お金をもらったよ。」という。
いずれも1960年代後半の話だ。

沖縄は、1972年まで、米軍統治下にあった。

当初考えていた「20年のタイムラグ」は本当に存在し、まるで、20年前の横浜に戻ったかのような生々しい証言の数々を聞くことができた。

スタジオ解放区の紹介で、ビデオインタビューできた人たちのほかにも、大衆食堂で、銭湯で、出会った人たちに、それとなく昔話を聞いて歩いた。
そこには、横浜の記憶を超え、沖縄でしかありえない話もたくさんあった。

「沖縄戦のときには、お母さんと兄弟姉妹たちとで、近隣の山にこもって2~3ヶ月すごした。時々里に下りてきて、畑から芋を盗んで食べた」。
「跡継ぎだったおじいさんを戦争にとられるのが嫌で、ブラジルに移民した」。
「1968年に、神奈川の大学に入学したときには、パスポートが必要だった」。

スタジオ解放区とともに、いつもボランティアとしていっしょに活動をしている人(1958年生まれ)の証言も衝撃的だった。
「うちのおじいさんは、沖縄戦のとき、兵士と間違えられて、米軍に射殺されたと聞いています」。
「父は米軍を嫌っていましたが、基地で働いていました」。

後で、スタジオ解放区のスタッフに聞くと、いつも近くにいる人たちのそんな話を聞いたのははじめてだったという。
たしかに、改めて親しい人のおじいさんやお父さんの話を聞く機会はないし、また聞きづらい。

そういう意味では、オーバという、よそ者が、ある意図をもって収集しているからこそ、引き出せた情報だといえる。

一方、オーバにとっても、突然訪れた地で、はじめて出会ったばかりのふつうの人たちが、ビデオカメラの前で、証言してくれるはずもなく、スタジオ解放区との協働なしではありえない企画だった。

アサヒ・アート・フェスティバルというゆるいネットワークを媒介に、何年もかけて、スタジオ解放区が築いてきた信頼関係と、オーバの持ち込んだプロジェクトが融合した結果、力が抜けて無理のない、しかし、貴重なフィールドワークをすることができたのだ。
そして、そこで得た情報は、スタジオ解放区とオーバが共有することにより、コザと若葉町、それぞれがそれぞれに活かすことができる。

横浜に帰る前日の夜に、このプロジェクトの成果発表と改めていろいろな話をするために、交流会を開催させてもらった。
その準備のために、「横浜から来ました。米軍統治下の話を聞かせてください。」というポスターを貼ると、私たちに話しかけてくれた人たちもいた。

大きな手ごたえと、成果を得た1週間であると同時に、プロジェクトはやっと始まったばかりであるとも感じている。

1947年(昭和22年)生まれの元八百屋さんは、自分が大学生だった60年代、マルコムXのブラックパンサーによる公民権運動が盛んだったことを話してくれた。
1958年(昭和33年)生まれの小劇場のスタッフの女性は、「1972年ころ、中学生のときに友だちといっしょに観た赤テントや黒テントの芝居が、今のわたしにつながっている」と語った。

バス停を降りると目の前は空き地。商店街はシャッターだらけ。
人もまばらなコザの街だが、一歩踏み込むと、人々の中に、膨大な情報が圧縮されている。
一見すると、コインパーキングとマンションしかない若葉町と、コザは、やはりどこかつながっている気がする。

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  1. 2010/12/18(土) 04:06:41|
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